誰もが知っている動かしがたい厳然たる事実
人は必ず死ぬ。
そう書くと、何か暗く不吉な禁忌に触れてしまったかのような奇妙な気配が漂う。しかし、これはまぎれもない事実である。誰もが知っている動かしがたい厳然たる事実である。
昨夜、死刑となる夢を観た。そうした状況を夢に見たということがことさら特異な体験だったと言いたいわけではない。おそらく死刑執行の報道に潜在意識が刺激されたせいだと思う。何の夢を見たか、ということでははなく、その夢の中で出会う事態に対してリアルに心が動き、まるでそれが現実であったかのような夢体験だった。そういう夢を見ることは少ない。目覚めても、その心的体験の現実感がそのまま生々しく残っている。
朝になり、死刑を執行すると告げられる。それはわかっていたことなのに、またそう告げられても、ピンと来ない。それが自分に起こっていることではなく、まるで他人ごとのように分かっていない。そして現実に私はまもなく死ぬのだ、という実感がゆっくりと心を満たし、同時に恐怖と不安が忍び寄ってくる。
私は来世を信じているので、「ちゃんと肉体を離れ、迷わず天上界(あの世)に行けるだろうか」と不安に襲われ、それが無性に自信がないのだ。あの世の案内人にちゃんと出会えるだろうか。イメージされる死後の真っ暗闇で一人さまよう恐怖も感じる。そうして一心に祈っていた。
そしてこの世でその準備を何もしていないことを思い出し、焦る。亡くなる前にしておくべき、あれもこれもしていない。しまった。もう遅い。全部中途半端にこの世にそのまま残して行かねばならない。悔やんだ。
そうしてその夢は終わったが、次に夢の中で、その夢のことを語っているのだ。これは、一旦目覚めてもう一度眠りに入って夢を見たのか、それとも、夢の中で夢を見ていたのか、わからない。
はっきりと目覚めて、そして自分に刻印したのが、冒頭の言葉だ。人は死ぬのだ。それを分かっていない。実感が乏しいという程度ではない。むしろ、人は死なない、と思っているのだ。これは他人のことではない。つまり、「自分は死なない」と思って生きているのだ。「自分は(やがて)死ぬ」ということがまったくわかっていないのだ。
死の側から見て生を生きる。それが豊かな生のひとつの姿であるが、死は存在しないと否認して、日々を生きている。それはあまりに稚拙で偏狭な独りよがりに思える。「死ねば終わりだ」それは死を回避し否認するいわば臆病な拒絶の頑是なさではないか。潔く見えて実は怯えて生に執着する言葉と言えるかもしれない。
「私は(やがて)必ず死ぬ」
そのことを深く心に秘し、生きる時間を生き抜く。そう思う。