黒澤明 – 「姿三四郎」1943
「姿三四郎」
黒澤明、1943年の初監督作品、戦中のヒット作である。現代から見れば日本映画黎明期となるし、CGや高度な特撮技術を見慣れた目には、画面は褪せたモノクロで古臭く、三四郎と宿敵との勝負場面もただじっと対峙するだけで、対戦相手を一撃で死に至らしめる三四郎の必殺技も実体不明の子供騙し、ちょうど昭和プロレスの「鉄の爪」や「4の字固め」のように失笑ものと見えるかもしれない。これは当時の人気大衆小説の映画化であるから、それは物語に対する大衆意識の時代的変化があるのだからやむえない気もする。
しかし取り上げたいのは本作の肝とも言える、三四郎の言わば「悟り」についてだ。
三四郎はその武道(柔道)の師と精神的師、和尚から、ただ強さを身につけてしまっただけで武道の極意の何たるかをまったく体得していないと未熟を咎められる。三四郎は池に身を投げ1本の杭にしがみついたまま夜を明かす。その朝方、池に浮かぶ蓮を目にし、三四郎はついに武道の極意を涙ながらに悟るのである。
このように、その人のものの見方考え方から生き方までを一変させる突然の人格的変容、所謂「気づき」「悟り」というものが、以前は物語にまま見られたし、また大衆もそれを許容し、また求めていたように思う。しかし、現在においては、こうした衝撃的な精神的転回について、はなから懐疑的な態度が一般的ではないか。よっぽどでないと「嘘くさい」と嘲笑されるのではないだろうか。
これは「どうせ人は変わらない」という信条、つまり内心のつぶやきのせいに思える。そんなことで、簡単に人が変わるものか、という呪いに似た声だ。
これこそが「現代」に思える。かつては「人は変わることができる」という希望にも似た信条が人の心に多く行き渡って共有されていた気がする。今はそうではない。「変われるものか」というつぶやきだ。
そもそも物語の起承転結は主人公の心の変容をテーマとするものが、一つの王道である。突然でなくとも、物語で直面する大小の事件を通じて主人公の態度が始めと終わりではすっかり変わってしまうのだ。そして物語の力量が問われることになる。懐疑的な現代の読者に「嘘くさい」と鼻をかけられるか、なるほどと納得させひとつの感銘を与えることができるか。
簡単に人が変われるものか、というつぶやきの由来が、虚無的な諦めや絶望であったとしても、それは人が変わることへの憧憬をもとより否定し去っている訳ではないのではないように思える。むしろ、楽観的過ぎて現実的でない、絵空事の転回物語にうんざりした、という抗議なのかもしれない。その始まりには、人が転回変容することへの限りない憧れがあったからこその懐疑であるような気もする。
ならば、三四郎の「気づき、悟り」を現代において描くには確かにもの足りない気がする。抽象的な禅問答のマジックにはもう騙されてくれないのだ。
しかし、一方で現代の物語は大した展開もないまま、扇情的なカメラワークと劇的なBGMに大げさな役者の表情で表層的な興奮を煽るだけの「中身空っぽ」で呆れるドラマ映画がたくさんあり、そして驚くほどに受け入れられている。
深い精神性に関わる転回には警戒的に距離を置こうとしながら、情緒的な扇動にはいともたやすく身を任せ委ねる態度。これは紛れもない人格の劣化であるが、だからこそ、物語の作り手にとっては、旗幟鮮明にその力量を問われる時代であるということだ。
さて「姿三四郎」を現在に対応した転回物語としてよみがえらせるとすれば、どういう脚色となるだろう。面白いと思う。