公案とサリバンの人間観
私の書いたある長い小説について、友人と語り合った。彼は刑事司法の現場で心理専門家として日々臨床に当たっている。信頼している現場専門職の一人である。
小説の読み方は千差万別である。彼と話していて心地よくまた得難いと思うのは、彼が小説を具体的な臨床現場で向かい合うのとまったく同様に、私の描く人物に向かい合ってくれるのだ。その登場人物の様々な振る舞いや口にする時々の言葉から臨床家としてその人物像を深く語ってくれる。語るだけではない。臨床体験と同様に秘めた過去や迎える未来が孕む、桎梏と可能性に思いを馳せ、そしてその契機となるべき事件や事態を考察してくれるのだ。それは私との対話の中でのことなのだが、私にとっては至福である。そもそも、そのように深く、また敬意をもって(と私は思う)、私の創作した物語を理解し読み込んでくれるなど、感動するなという方が無理。書き手冥利につきる。感謝しかない。また、率直に語られる疑問や感想がとても私には有難い。私にとっての盲点を的確に指摘してくれる。それを念頭にさらに書き直せば、もっとよい物語になるのがはっきりと分かる。
力のある物語を書きたい。ただ触れて心地よくなるために奉仕するものではなく、物語としてただならぬ力のある物語を書かねばならない。しかし、やはり私自身がまだ頑是なく守ろうとしている保身がそれを阻んでいる。彼と会話していて納得したのだが、私自身が「よい書き手」である以上に「よい××」であろうと、優先している事項が物語の弱点となっているのだ。それが明らかとなった。
禅でいう「公案」をもらった思いだ。
彼はフロイド派の分析家であるが、私はフロイドよりもユングに傾倒していた。しかし彼はHSサリバンの臨床を理論上も技法上もベースとし、その流派の専門家である。私が臨床上もっとも惹かれたのがサリバンである。サリバンが書き残したものはほんのわずかであるが、その根っこに巨大な哲学的信条、また精神病理観を支える信念に近い人間観を感ずる。それはヒューマニズムを超えて、人権、平等などと語る以上に、言わば「平衡」に眺め接し貫く天才的巨人の営みだ。彼と語り合う心地よさは、その冷徹で温かく揺るがないまなざしに触れるからでもある。よい人と出会った。つくづくそう思う。