クローズドシステムの陥穽
「カクレキリシタンの実像」読了。先に書いた「党派性」についてのとても良い事例だった。もちろんそれは「はからずも」ということ。著者は意図などしていないし、自他(カトリックと隠れキリシタン双方)を「客観的」に見ていると自ら認識しているし、また懸命にそう努力し努めているのがうかがわれるだけになおさら、「党派性」「クローズドシステム」の中にあるとき、自らが「全体」になってしまう陥穽の圧倒的力の前にいかにその理性や精神性が無力極まりないかを教える。「党派」の中にあるとき、「党派」内で共有される価値や意味が絶対性を帯びてしまい、それが相対的な「たかが」にすぎないことが「全く」見えなくなってしまう。つまり、クローズドシステムの中にいる者には、オープンシステムは「見えない」。自らの相対性を絶対性としか認識できないからだ。ここでは、時と場、つまり歴史と地理によって個別に規定された或る部分に過ぎないことが「全く」無視され、今ここの全体性妄想に憑依される。分かりやすい例で言えば、時事コメントにおける松本人志と北野武の違いであり、業界知と哲学、常識と本来性、情報とイデア、ローカルとスーパーの違いだ。このクローズドシステム=ファシズムの日本における侵食は東北大震災を契機としているのは、興味深い。つまり、クローズドシステムは外枠であり、それは怖れおののく心情を守り安定させる構造化である。さらにまた、検討したい。
「ポルポト<革命>史」も読了したが、感想は書かない。