スピルバーグ映画の現在的弱点
巧みな演出考える自由奪う
アーロン・ジェロー(イエール大学教授 日本映画史)
トランプ政権が報道の自由をおびやかしフェイクニュースが蔓延する中、メディアリテラシーの重要性が高まっている。映画でも、観客が画面の中から何が重要なのかを能動的に見つけられるような作品が求められています。
スピルバーグは脱帽するほど映画作りがうまく、カメラワーク一つで観客の視点や感じ方まで誘導できてしまう。一方でそれは観客の「考える自由」を奪っているのでは。裁判所を出たグラハムの周りを女性たちが取り囲む演出には、わざとらしさを感じました。
この映画は政府とメディアだけでなく、政府と市民との関係がどうあるべきかを間いかけている。我々一人一人が行動しないと今の世の中は変わらない。
だからこそ今作はヒーローたちの活躍をドラマ仕立てにするのではなく、決して完壁ではなかったブラッドリーの人間臭さや、ワシントン・ポストに機密文書を持ち込んだヒッピー風の女性の素性など「普通の人たち」の内面をもう少し描いてみせてほしかった。(朝日2018/4/16)
————-
朝日に「ペンタゴンペーパーズ」のレビューがあった。三氏の論評の中で、上に引用した部分に強い印象を受けた。確かに、「ペンタゴン–」には感動を覚え、観劇後は一種爽快で前向きな意欲を湧き起こさせる。しかし、それで終わりなのだ。あとに残らない。これは、「ジュラシック–」シリーズの恐怖が観劇後きれいさっぱり跡かたなく霧消するのと同じだ。「ペンタゴン–」はやはり、1971年のアメリカ物語なのだ。あの時代を体験していない青年と一緒に映画を観た。彼にはまったくちんぷんかんぷんだったのではないかと思う。ペンタゴンもベトナムもアイゼンハワーからケネディジョンソンそしてニクソンも、さらには会話で出てくるジャッキーとは誰か、へたするとタイムズもポストも「知らない」ならばどうだろう。その説明もない「当時を知る」ことを前提とする映画であったのだから。だけではない。これはトランプ大統領という「存在自体がブラックジョーク」に過ぎない時代への現在的危機感から制作されたものとすぐに分かる作品なのだが、ならばこの現状にどう対抗し、時代をどう読んで、どう動くか、についての解答は描かれない。解答がないのは当たり前だ。問題なのは、解答がないのにまるで物事が解決したかのような観劇後のスッキリ感が問題なのである。現にトランプは民主的手続きを経て正統な大統領として君臨しているのである。そしてヨーロッパもファシストが次々にいまや政権奪取という勢いだ。そして日本は歴史改竄主義に代表される国家の総劣化が国ぐるみで深刻な様相を呈して久しい。これにどう向かえばよいのか。暗澹たる中に置かれたままである。だからなのだ。「ペンタゴン–」はよい。しかし、もっと現在は深刻である。当時としての思い方動き方を提示された。現在はどうだ。この問いがそこに残ったままなのである。観劇後、すっきりした気分になってぼやぼやしてはおれないからだ。スピルバーグの美しさが、現在は弱点であるのかもしれない。この論評はそれをまさにすっきりと教えてくれた。