Jクルーズ -「幌馬車」(1923)
サイレント映画。1923年だから日本はまだ昭和にすら入っていない。大正時代だ。古!
西部史劇の原点とされる。連なる幌馬車の100台の隊列が進むのは砂漠であり、渓谷であり、また雪原だ。そこにさまざまな人間ドラマが織りなされる、行程3200キロのロードムービー。
これもまたアメリカの原風景なのだろう。砂埃、嵐、馬、銃、家族、恋愛、それらを包含するのは西部へ向かう開拓者精神ということになる。警察も役人もない地を行くということ。「フロンティアスピリット」を掲げたのはケネディ大統領だから、その言葉は子供の頃よく耳にし目にした。しかし、あまり見なくなった。それは、先住民にとっては「移民による侵略」に過ぎなかったことが明かされたからだろう。
一方の眺めによる事態の認識がいかに偏って都合よく歪曲されるかことか、その典型ということだ。それを前提にしてみるとよく理解できる。そちらからはそのように見える、ということにすぎない。その危うさを自覚しないための末路が、そのまま今の日本であるわけだが。それはまあいい。
劇の中でも、目指すべき地を「約束の地」promised land と呼ぶ。これは聖書に言う、神に約束されたまだ見ぬ我らの国、ということだ。アブラハムがユダヤの民を引き連れてヤーベの促しのまま長い旅を続けた史実になぞらえているのだ。アブラハムとロトが「お前が右に行くなら、私は左に行こう」と二つの隊列に分かれてゆくのと同様、「幌馬車」でも二つに分かれてゆく。ロトが快楽の町ソドムとゴモラの地に向かうように、劇ではゴールドラッシュに沸くカリフォルニアへ一方の隊列はそれてゆく。
昔の映画はいい。それはつまりスタンダードを創造する未踏の産出だからだ。ヒチコック、チャップリン、キートン、Jフォード、黒澤、ロッセリーニ、ルネクレマン、マルセルカルネ、ルノワール、ジョルジュクルーゾー、オーソンウェルズ、その他、それまで地上になかった作品を生み出した人たち。
言ってしまえば、前からあるものを作ったところで、なんの意味があるのか、とおのれ顧みず悪態つきたくなる。だから60-70年の音楽にも惹かれる。むしろ洗練されなくていい。初めてに生まれたものは洗練などされていない。ごつごつとむき出しで粗野だ。その稚拙な乱暴さが創造の輝きだ。前例など糞くらえだ。
しかしそれは産み出しえた者のみが語れる特権だ。結果を出さねば、まったくのペテン師詐欺師、ただの「嘘つき」にすぎない。結果を出さねばならない。それだけが明らかだ。