カポーティ
カポーティを読んだ。
短編を三つ読んだだけなのに、翌日になってもそのキリキリとした余韻が残った。
余韻と言うと穏やか過ぎる。
それは絡みつき心の芯まで蝕む酷くたちの悪い廃疾のような、寂寥だ。
こんな凍えるような寂寞を物語に感じたことはあっただろうか。
他愛のないと言えば言い過ぎか。それは少年期の思い出話に過ぎない。淡々とした筆致でことさらな訴えも悲鳴も描かれてはいない。
それなのに、なのだ。だからこそ、なのかもしれない。
この骨の髄まで染み込んで拭い取れない寂寥をどうしよう。
カポーティを手に取ったのは、ある青年がとても好きな作家としてその名を挙げたからだ。私はその青年のことをよく知らない。姿はよく見、その声は毎日のように耳にするが、あえて親しく言葉を交わす関わりをはばかられる、そういう立ち位置にあるからだ。ただその青年が小説のことを語るとき、それは趣味や教養としての関心を遥かに超えた、むしろ実存とか生とかに根ざした文学への正しい傾斜が明らかに見えた。そのときわずかに言葉を交わした。それはその場にとても異質な会話であった。そういう青年がいいという小説であれば、それなりのものであるはずと、思った。好みには合わないかもしれないが、文学として力あるものだろうと。
訳は村上春樹だ。訳文になると、こんなにも読みやすい文体になるのか。とても簡素な読みいい文章だ。私は彼の文体がとても苦手だ。嫌いなわけではない。とても気に入っている短編もある。しかし大ベストセラーの長編群はどうしても読み進められない。どうしてか、あの奇妙な乾いて無機質な、そう、騙し絵のような何かバランスや構造の転倒して倒錯した、暗号のような文章が受けつけられない。確か村上春樹は、先ず英語でその長編を書きあげ、それから日本語に自分で訳し、さらに一年ほどかけて言葉の一つ一つを精査して点検推敲して仕上げるのではなかったか。
訳文は、とても簡素だ。
僕は金子光晴や黒田三郎で文学の門をくぐった。だから、言葉と言えば詩であった。そして表現ならば、当たり前に隠喩であった。しかし編集の仕事に就き、新聞記者であった社長から文章のトレーニングを受けた。それは文学ではない。しかし飛躍的に表現の力を与えてくれた。言葉で表現できないものは何もないではないか、そう思った。図面や写真の代わりに言葉で正確に読み手に伝える力、それを学んだ。
むしろ、村上春樹の訳文はそっちなのだ。余計な装飾や思い入れを排した、簡素な文章。
教科書に掲載されていたカポーティの英文を読み、その美しさに魅入られ全文を原書で読んだと、村上春樹は後記に、書いている。ならば、この文章の簡素さはカポーティの味なのか。
じわじわと冒すように染み込んでくる寂寥の秘密は、この文体にもある。
僕に英語の小説を読む能力など皆無だ。
それでも、言葉、物語が伝える力をカポーティはそのままに示している。また、それははからずも本人の意図したよりも遥かに語り手自身を表してしまう言葉、文章、物語のおそろしさを表しているように思える。