劇団男魂「航路」 公演終了!
劇団男魂の「航路」公演が終わった。
文字どおり感無量だ。
三日間連続で観劇したのだが、簡単に言葉が出ない。ただ月並みに、素晴らしかった、ありがとうございます、と繰り返するばかりだ。
ああ、何より、もうあの舞台を見ることはできないのかと思うと苦しいほどだ。残念すぎる。連日大変な盛況ぶりだったが、もっとたくさんの人に見てもらいたい、いや日本中いやもっと、と思ってしまうのは、一回生起の舞台の醍醐味、外連味をわきまえなさすぎなのだろうか。
俳優陣一人一人のことを語りたいが本人の目に触れるかもしれないので語りにくい。それは決して苦言を言いたいということではなく、ご本人の表現者としての有り様に舞台素人が影響を与えてしまうことへの危惧だ。褒め言葉であっても影響を与える。それは恐ろしいことでもある。
そして私は今回とても大きな収穫があった。それは「喜劇」についてだ。
ギリシャ劇、シェークスピアから能楽まで、「悲劇」について思考的に尋ねてきた。ここでいう「悲劇」とは、「悲しみ」の物語ではない。近頃世間に溢れる「泣ける感動作」だって、悲しいと言えば悲しい。なぜか、絶叫すれば演技はいらない、あの類のクソコンテンツのことではない。「悲劇」とは、つまり「絶望」であり「救いのない」物語のことだ。物語は決して、受け手の欲しがる心地のよい精神的快感を提供することにとどまるのでなく、むしろ優れた物語は、受け手を問い、尋ね、あるいは突きつけて、深くを揺さぶるものである。
で、「喜劇」である。喜劇とは言っても、悲劇の悲しみに対置される「喜び」の物語ではなく、「笑い」の劇のことだ。今回はそのことをよく学ぶことができた。
私は漫画が好きで若い頃から「いしいひさいち」という4コマ漫画家がたいそう好きだった。学生時代、まだ関西大学の学生だという噂もあり日刊アルバイト情報に連載されていた「バイトくん」の面白さはまったく型破りだった。また珍しく左翼ネタが出てくるのも特徴的だった。左翼と言っても社共でなく、新左翼過激派ネタ。三里塚闘争などリアルな現場を知らないと書けないギャグが満載だった。つまり、あの抱腹絶倒ギャグ漫画が実はリアルな現場の様子を描いた優れたドキュメントでもあったのだ。笑い話にするほかないアホらしくそして生真面目なリアルだ。例えば、兵頭正俊の著述した全共闘記の重苦しく鈍重で救いのない暗闇の世界とは対極の軽妙さだ。しかし、同じくリアルなその現場を「悲劇」つまり「沈鬱で深刻な絶望」として描くこともできれば、まったく同じ事象を「喜劇」つまり「抱腹絶倒の笑い」として描くこともできるのだ。よく見ればいしいひさいちのギャグは実は現実をそのままに描いているのだ。悲劇的現象は滑稽なのだ。
まわりくどくなった。つまり、「男魂航路」における「笑い」は描き方における「笑い」であって、事象そのものは悲劇でも喜劇でもなくニュートラルなただの事実だ。
ネタバレになるので書きにくいが、自称最低の高校教師がしでかした「恥ずかしくて絶対に人には言えない秘密の失敗」が杉本脚本の航路に出てくる。これは、笑いどころであり、また下ネタである。しかしなのである。これは性質としては、「精神療法場面における逆転移」の問題であり、心理臨床家が最初にくぐる切実なテーマなのだ。また、経済的苦境に陥った登場人物がまるで「駝鳥男」のように奇矯な声を意味なく発する場面があるが、これも精神のあまりにも切迫した葛藤に耐えかねて思わず声をあげる、それも「うわー」とかいういかにもな声でなく、「ポー」などと奇怪な声を上げる、それがリアルなのであり、似た苦境の体験があれば、あるあるネタそのものだ。
「笑い」としての描き方、小説物語として描くには、私にはハードルが高すぎる。しかし「お笑い」とは、例えば漫談家綾小路きみまろが老女たちを前に、切実な老いや死をテーマに散々笑いをとるその魅力なのである。
これは薄々感づいてはいたが、今回しっかりと「喜劇」を学んだ気がする。これから私の作風に幾分かの変化がじわりとあるかもしれないし、その能力に乏しく相変わらずいつまでも深刻な物語を書いているかもしれない。
ともかく公演終了である。至福の時間を、脚本演出家の杉本さんはじめ劇団の、客演の皆さんに心から感謝したい。
私は物語を書くだけだ。また皆さんに料理して頂けるのを楽しみにウンウンと創作に悩み励んで行きたい。
ああ、それにしても、 ich liebe dich の旋律が心に浮かべば自動的に宏江さんの声が重なって聞こえてくる。この感じは消えないで欲しいな、ずっと。