映画「羅生門」

黒澤の「羅生門」を連日4回も観た。
なぜ4回も?途中で寝てしまったから。
途中で寝てしまうくらいなら面白くなかったんだろうとなるが、そうでもない。最後まで見届けなかったのが悔しくてもう一度、もう一度と繰り返したということ。
相変わらず黒澤映画は台詞が聞き取りにくい。この映画は言葉が筋立ての柱なので、聞き取れないと歯痒い。2回目の前に原作の芥川「藪の中」を読んだ。台詞は随分と原作のままである。やっと3回目に最後まで見届けた。
原作はまさに真相は「藪の中」だ。そもそも「藪の中」という言葉からが、この小説によって使用され定着したものらしい。
明らかなのは一人の男が藪の中で死んでいたという事実のみ。盗賊、妻、殺害された本人(巫女を通して語る)それぞれの話が全く異なる。縛り上げた夫の目の前で賊がその妻を犯したという事実については、三人一致している。異なるのはその後だ。
賊が言うには、立ち去ろうとすると女がすがりつき、賊か夫いずれかが死んで欲しい、生き残った方と添い遂げたいと訴えたという。賊は男と決闘し殺害するが、女はすでに逃げ去ったあとであったと。
そして妻によればこうだ。ことを終えて賊が立ち去った後、残された妻に対し夫はあまりにも酷い蔑みの目を浴びせた。耐え切れず妻は気を失い、知らぬ間に夫を殺害してしまったのだという。
殺害された男はこう言う。思いを果たした賊は妻になれと女に迫る。女はうっとりとして首肯し、どこへでも連れて行って欲しいと甘く答える。さらには、その前に夫を殺して欲しいと賊に懇願する。賊がためらううちに女は逃げ去り、賊は男の縄を解いて立ち去る。残った夫は絶望し、自ら命を絶ったのだという。
ここまでが小説だ。
黒澤はこのうえさらに、別の目撃者を登場させ語らせる。それが流石なのだ。その内容は書かない。

賊を演じるのは三船敏朗、振る舞いは七人の侍の竹千代に似ている。あの笑い方だ。大方上半身を露出させている。黒澤のエロスの描き方はどこか未成熟で淫靡な迫力はない。しかしこれは女性にとってはサービスシーンだ。若い三船の彫りの深い美貌と躍動する肉体美は全く規格外である。
殺される夫は森雅之。雨月物語、白痴の「美男子」そのもの。三船と相対すると、なんとも異種互角の美しさだ。
しかし、その男二人を圧倒的に凌駕するのが、京マチ子だ。その変幻ぶりはなんとも凄味に溢れている。健気な美少女の面影を見せたかと思うと、土まみれの賊に乱暴に唇を奪われると背中に回した手に力を込める。そして我が身に降りかかった不運に茫然自失となり泣き伏し、絶望に駆られた心情を切々と泣きながら訴える。かと思うと、賊に対して吐きすてるように大声で罵倒しその不甲斐なさをあげつらい、そして哄笑する。返す刀で夫をもなじり、積もり積もった恨みをぶちまける。凄まじい。これは俳優の力でもあり、また演出家の力でもあるのだろう。スチールの妖艶な表情とは映像ではかなり異なる。
黒澤映画としては異色作。とても戯曲的だし、実験的だ。近世以前という時代設定も黒澤には珍しい。また有名な木漏れ日の光は全体が現実でないファンタジーだと寓話の趣きをおのずと見せている。
4回も観たのは、途中で寝てしまったせいではあるが、何度見ても飽きないからだ。面白い。途中からこの夫は性的不能者だったのではないかと思えた。そう見ると全てが合点が行くが、それが真相だと決めつける気はない。まだまだどうとでも味わえるからだ。
こうした深い映画をさらにまた観たいが、しかし新作邦画としてはもう生まれないかもしれない。でもそれはそれで仕方ない。こうして、歴史的名作を何度でも見ればいいのだ。そして文句があるなら、自分で作れってことだ。作れないなら黙るしかない。黙るけれども悔しいから、やっぱり書くし作るよ。