「アルジェの戦い」「総長の首」

「パイレーツオブカリビアン 最後の海賊」と「メアリと魔女の花」を見た。特にこれといった感想はない。
で、借りて観た映画「アルジェの戦い」「総長の首」について。あと黒澤の「羅生門」を連日3回続けて観たが、これはまた別に書く。

「アルジェの戦い」はフランス植民地支配に対するアルジェリア民衆の激烈なゲリラ闘争を、Jギャバンの「望郷」と同じカスバを舞台にその組織創建から敗北に至るまでドキュメンタリタッチで描いたものだ。広大な民衆の庇護に守られ少数の行動者が体制を揺るがす。フランス人警察に対する銃撃、ヨーロッパ人居住区への爆弾攻撃、さらには自動車による歩行者らへの無差別攻撃。自爆攻撃がないだけで、手段はそのままIS等による現在的テロの形態そのままだ。いつの時代も現体制の支配する階層の転覆を図るための手段はそう変わらない。しかしそのまなざしの変化をどう見るか。
この映画はカンヌベルリンと並ぶ世界3大国際映画祭と知られるベネチア国際映画祭で最高賞金獅子賞を獲得している。
決して、残虐卑劣なテロと戦う英雄的国家「国民」の物語ではなく、自明の正当性を高らかに謳歌してあらゆる面で強固な支配を前提として所有している国家に対する民衆民族による独立解放闘争の物語なのだ。
隔世の感がある。
映画としてもとてもよくできている。戦後イタリアのネオレアリズモ風の映像が切迫性と初源的な衝動にマッチしている。いい。
必ずまた観たくなる映画だと感じた。

「総長の首」これは、脚本講座の師匠中島貞夫監督の作品。監督の作品といえば、「日本暗殺秘録」「真田幸村の謀略」や「極道の妻たち」などが紹介されることが多いが、この「総長の首」こそ、中島監督のパトスの結晶だと言いたくなる。真骨頂だ。安寧や秩序による閉塞感を破ろうと衝動的な疾走感がアナーキーに爆発する。なんと菅原文太はかつて中国革命(辛亥革命に連なる清朝打倒の革命運動か)に身を投じた大陸帰りのアナキスト。この設定から全体押して知るべしというところ。舞台を昭和初年の東京浅草に置いてはいるが、描かれるヤクザは戦後やくざだし、描かれる青年たちは明らかに新左翼青年の激情を模している。物語は、やくざ「総長」の首を獲るという、やくざ社会であり得ない、とんでもない跳ね上がりを犯した若者たちが逃走潜伏先で一人また一人とやくざ組織や官憲によって殺害されてゆく。
なにしろ過剰なのだ。匂いたちむせ返るような肉体的情動がこの映画の真髄だ。
何か、無性に衝動を呼び起こされる。

ところで、「戦争映画なのに泣ける」というある映画のコピーに対して、つまりそれは「AVなのに抜ける」と言うのと同じだと痛烈に批判するツイートを見た。つまり、今世間に溢れている「泣ける映画」は、残酷な戦争など過酷な悲劇とは無縁で、むしろ対極の「甘いセンチメンタル」でなければならないのだ。異常である。涙すべきは戦争という人類、人間にとって最大級の悲劇であって、そうしたリアルな悲劇から目をそむけて誰一人傷つかない仮想の甘美なファンタジーに涙を流すなんて、こんな馬鹿なことってあるか、と思う。

「総長の首」は同じファンタジーにしても、むしろ昨今の泣ける映画に対してはそもそもがアンチテーゼと言っていい。
こうした一種破壊的な痛快さは観る者に、自分のリミッターを外すよう促す力を持っている。映画のアジテーション力。
以前はこうした作品がよくあった気がする。こうした映画の「力」はもっとよく検討して理解したい。「力」ある作品に学びたい。