浄土
たとえば、能の囃子方の唸り声の響きであるとか、人間の業の深さをそのままに伝えるが、ここで言う「人間の業」という不幸は、現世この世界においての「不幸」ということである。
マルクスは宗教はアヘンであると述べたが、それは、死後の幸福を約束することで、現世での幸福追求や不幸についての抗議を放棄させ断念させるまさに麻薬であるという主張であった。
現世での幸福を占奪していた階級の玩具と堕していた既成仏教を離れ、大衆に分け入り「浄土」を約して念仏を広めた法然や親鸞は、マルクスの述べるとおり、現世での幸福を断念させる虚しい麻薬を大衆に広めたのだろうか。
私は違うと思う。それだけではないだろうと思う。辛苦にあえぐ大衆が死後の浄土に強烈に救済されたのは、死後からのまなざしを与えられた衝撃だったのではないか。つまり「幸福」の意味の転換である。
通常、生活意識において、私たちの存在は誕生から死までと当然のように限定されている。つまり、限定された現世における幸福・不幸である。ならば、死後から見た「現世」とはどういうことか。それは、永遠の生命のまなざしであり、「なんのために生まれ生き死ぬのか」という問いそのものである。その問いは、現世の幸福にも疑問を呈する。なぜなら、人は裸で生まれ裸で死んで行くからである。財産も健康も地位も名声もいっさい、この世に捨て置いて行かねばならないからだ。現世の幸福すら、この世に置いて行かねばならないものだからだ。
たしかに、この耐え難い激痛が未来永劫続く恐怖を想像すれば、やがて暗夜にも必ず朝が訪れそれは終焉を告げることに無条件の救済を感じることも希望そのものと言っていい。しかし、それだけではない。かりそめをかりそめに過ぎぬと透徹したまなざしにいざなう根底的転換なのである。