村上春樹
村上春樹がひどく気になった。新刊が出ているが、そんなことではない。村上の「職業としての小説家」を読むとここにも引用したが、とても共感する部分がある。その小説と違い普通の文体で、専門のゴーストか、編集者が手を入れているのか、読みやすく、わかりいい。しかしやはり本人の筆だろう。文章には憤懣がにじみ出ていかにも「根に持っている」ことが露骨に伝わるし、思わず噴出したくなるとぼけたユーモアがある。しかし、もしかするとこれはサービスジョークではなく、本人はいたってまじめに書いているだけなのかも、と思わせる。ユング心理学の用語がさらりとよく理解され使われてあるし、深層、無意識にかかわる言及も深い。そのことを村上ファンである妻に話すと、河合隼雄との対談を貸してくれた。とても面白い。そして僕が抱いていた「村上春樹」像が実際とまったくずれていたことに気づいた。「ノルウェイの森」について「私には珍しい恋愛小説」と記してあった。僕の「村上春樹」に対する先入観は、恥ずかしながら80年代わたせせいぞう風の「都会のこじゃれたラブストーリー」というものであった。唯一読んだのが当時の「風の歌を聞け」だったからだ。妻に村上春樹が書いている小説のテーマは何かと問うと、初期から「不安な青年の彷徨」なのだという。
あの離人症のような奇妙な文体に対する拒否感は強いので、文庫の短編集を買ってきた。まだ、三篇の掌編しか読んでいないが、驚いた。衝撃だった。「納屋を焼く」は好きだった吉行淳之介の短編のようにどこが現実と象徴が混濁したすこぶる美味しい小品。問題は「踊る小人」。もしかすると作家自身は満足せず、失敗作としているかもしれないが、これはすごい。夢という非現実、つまりファンタジー、妄想が現実に入り込み、現実を凌駕してゆく。そのまま、精神が壊れてゆく人の主観的体験そのものではないか。深みに引き込まれる。長さもいい。梶井基次郎や中島敦をそのまま連れてきたみたいだ。強烈な読後感。まさに深層の井戸に下りて行く物書きだ。壊れる人が壊れる人のことを壊れながら書くのではない。「壊れる人」に成り代わり身を以って下りて行く「壊れない人」だ。体験を通して描く自己に閉じ込められた書き手とはまったく異なる巫女的な体質だ。すばらしい。
一つ一つ読んで行きたい。すごい作家だ。